2017年5月11日木曜日

対話、コミュニケーションの価値は何処にある?

この前の日曜日に、佐倉統先生の朝日の書評を拝見して、とても示唆にとむ内容でした。

(書評)『復興ストレス』、『理性の起源』、『モラルの起源』

http://www.asahi.com/articles/DA3S12926126.html

復興のストレス、理性、モラル。どれもこのごろよく耳にするキーワードです。

311直後は、佐倉先生は「もっと理屈や客観を見失わないように」というスタンスのお考えをおもちだったのではないかと、記憶しております。

いまは、もう少し心理学的なことの議論をふまえておられるような感想を書評からもちました。

それでいて、やはり「冷めた眼差しを社会へ向けつづける姿勢」の必要性をリマインドされています。

書評に選ばれた本は、「起源」という言葉がタイトルにあり、そこから、「種の起原」を重要文献としてご研究をされてきた佐倉先生らしさのようなものが、にじみでているともおもいました。

客観と直感、理屈と情緒。自分に備わっている思考や感覚をぞんぶんに発揮して、コミュニティでうまく力を合わせ、もろもろの課題に取り組まなければなりません……。

いまの時代に求められる対話やコミュニケーションの基軸は、そのあたりにあるのではないかな?との感想をもちました。

2017年5月1日月曜日

ぐっすり眠りたい晩に聴く音楽

今年は、年度末から年度始まりにかけて、いろいろなことがあるけれど、そういうときこそゆっくり夜は睡眠に時間をつかいたいものです。

ここで、わたしがよく聴く就寝前の音楽をふたつおすすめします。

モーツァルト ハープとフルートの協奏曲 二楽章

ベートーベン ピアノ協奏曲第五番 二楽章

よかったら、眠れない夜にかけて聴いてみてください。きっとぐっすり眠れます。

2017年4月12日水曜日

バッハが上手く弾けない


このごろの仕事で、執筆やメール書きをしているときにかけている曲は、あいかわらずとても優しい音楽がおおいです。たとえば、シューマンピアノ協奏曲イ短調作品54の2楽章アダージョ。

この楽曲のイメージのような、遠くのほうでかかっているか、かかっていないか、わからないような静かな音楽。そこにTranquility、つまり静寂や平穏を覚えます。自分の仕事で書いている文章も、静寂や平穏さをあたえられるものになれたらよいな、とおもいます。

こういう心境にいたるまでは、とてもたくさんのことを悩んであせってきました。でも、経験をつんで、ますますそのように思うようになりました。

幼少期から音楽に慣れ親しむ環境にあって、おそらく、わたしの頭脳や耳は、かなり音楽家に近いのだとおもいます。物書きとして取材や記者会見に足を運ぶと、話し手の語りをよく聴かなければなりませんから、子どものころからいままで音楽と向き合ってきたことは、いま音楽以外のことでもきっと助けになっているのだと考えています。

いちばん楽器演奏が得意なのはフルートですが、いちばん普段よく仕事や自宅でのBGMでかけているのは、ピアノ曲です。ピアノの曲を聴きながら、「ピアニストはこんなにも美しく音を奏でられて、鍵盤をつかいこなせていて、素晴らしい」とかんじいり、パソコンに向かって、ピアノを弾くかのようなきもちで原稿を書かせてもらっています。

楽器演奏のように原稿執筆をする。その技術の共通点は、音なり、言葉なり、表現手段をもちいて、何を相手に伝えたいのか?と自分自身へ問いかけなければならないことです。いまプロが話題にしたり一般のかたへ伝えたりすべきことは山積しています。自分がなんのプロで、何を伝えることがプロなのか?それを考えることはますますだいじなのだろう、というふうに痛感している日々です。

わたしはライターとして取材執筆に取り組んでいるのに加えて、コミュニケーション論の研究もしてきました。そうすると、「何を伝えるか」にくわえて「どう伝えるか」もとっても大切なことだと理解してきました。

音楽でも文章でも、どんなふうに伝えられるのか?というのについて、なるべく客観的になれたら、と願望をもっています。それにもかかわらず、対話をする相手あってのことですから、相性や日々の空模様、気分や体調などもあって、なかなか面倒なのがコミュニケーションです。

そんなわたしの行き詰まり意識をすこし緩和してくれる出来事がありました。先週末、おともだちのお家に遊びに行った時のことです。

彼女のお宅は、つくば市の広々とした田園風景のなかにあり、居間の中心にピアノが置いてあります。家族全員、お父さん、お母さん、お子さんも、みんなピアノを習ってきた経験があり、お父さんはベートーベンの悲愴、お母さんはシューマンの子どもの情景、お子さんの兄弟でいちばんうえのお姉ちゃんはモーツァルトのワルツを弾いてくれました。一緒に遊びにうかがったうちの子も、ピアノはそれほど経験がないのですが、一緒に童謡を弾いてあそびました。

わたしは、そこで僭越ながらバッハのインベンション一番を弾きました。それと、ショパンのバラードの冒頭部も弾きました。とても恥ずかしかったのですが、(何しろ人前でピアノを弾かせてもらうなんてひさしぶりでしたので!)みんな当たり前にご飯を食べるのと同じようなムードでピアノの鍵盤に向かう様子だったので、つられてわたしもいつも自分でこっそりピアノ練習している時と同じように演奏しました。

そしたら、聴いてくれたピアノ一家のお父さんは、こんなふうに感想をいってくれました。「心が洗われるような音ですねえ」と。わたしの友達でピアノ一家のお母さんのシホちゃんは、「バッハにも、ひとそれぞれいろいろな弾き方や音があって、そのひとをあらわしているようですね。こんな優しいバッハ演奏があるんですね。こういうのもいいなあ」。

こんな感想を言ってもらえて、かえってこちらが救われるような気持ちになりました。

じつはずっと昔から、フルートでも、ピアノでも、バッハの演奏がうまくできなくて悩んできました。バッハらしく演奏するのが、とても難しいのです。かちっと演奏しすぎると、テクニカルなことばかりに気が向いてしまい、肩や腕に力がはいりすぎてしまい苦労します。

海外で留学していたときも、パーティに呼んでいただいてフルート演奏をしたら、「あなたのバッハはまるで印象派のフォーレやドビュッシーの音色のようだ」という感想をもらいました。まさに仰るとおり。東北大の学生オーケストラで吹いていたときにも、先輩に「さほちゃんは、モーツァルトが似合うよ。ベートーベンやバッハよりも」とアドバイスをもらい、そうかもなあとおもっていました。プロの音楽家ならバッハはバッハらしく、ドビュッシーはドビュッシーらしく、演奏技法を磨いて表現できるのだろうとおもいます。

でも、あるときふと、気がついたのです。わたしが「バッハが上手く弾けない」とつねに考えていて、聴いてくださってきたかたに「これまで聴いたことのない雰囲気のバッハだね」と言ってもらったのは、おそらく、理由があったのだと。それは、自分もみんなもよくお手本としてだいじに聴いてきた「グレン•グールド」の演奏のしかたと比べて、一風ちがったアプローチの演奏のしかたをしているのだろうな、ということです。

そしてつけくわえると、「優しいバッハ」の弾き方は、それほどわたしのオリジナリティではありません。以前、ショパン演奏の名手のひとりであるブーニンがバッハを演奏していたCDアルバムをぐうぜん図書館のオーディオセンターで聴く機会があって、そのときの「ショパンを弾き慣れたひとが弾くバッハ」にとても感激した体験がじぶんのなかで強くのこっているから、なのかもしれません。

こうした気づきは、フルートやピアノの演奏だけではなくて、文章を書いたり編集したりする作業でもあてはまるようにおもいます。

ああ、グールドのようにうまくは弾けない、誰々さんのようにうまくは書けない。それでも、じぶんはうまくできないけれども、うまくできないからこそ、まだまだ書くべきことがあるし、成長できるかもしれない「余白」が残されているはず。周囲からアドバイスをいただいて、それにしっかりと耳を傾けて、もしくは、大学でいま作文を教えている学生さんたちといっしょに学びながら、なるべく目標に到達できるように続けていけたら……。


このような心境が自分の成長なのかたんなる落胆なのかわかりません。ただ淡々と、無事な日々がくりかえされていくことに、どこか喜びや安堵のようなきもちがあります。

2016年9月30日金曜日

メディアはアート、アートはメディア

新しいテクノロジーを駆使したメディアが話題を呼んでいて、記憶に新しいのは、リオオリンピックの閉会式です。日本のメディアアーティストが活躍されていました。こういったメディアは、アートの表現形式としてどこまで開拓されていくのでしょうか?これからも楽しみです。

メディアをアートとしてとらえている人たちがいて、でもその逆に、アートはメディアなのだな!と驚嘆する展覧会へうかがってきました。上野の国立博物館で開催されていた、古代ギリシア展です。

美術というと絵画、彫刻、建築などとジャンルでわけて考えがちですが、2000年前のギリシアの宝をみていくと、当たり前かもしれませんが、白いキャンバスにかかれたものだけではありません。

例えば、壷の形をしているものが、わたしたちに絵を見ているような体験をさせてくれます。当時の世界初開催だったオリンピックの競技の様子が模様としてかかれていたり、古代ギリシアの数学者ユークリッドを思い起こさせる幾何学模様がほどこされていたり。アクセサリーも、当時どのような材料が使用されていたのか等々。

もちろん、ギリシア彫刻や建築も含めて、2000年昔のそういったアートにふれることで、当時の様子が観ているこちら側へ伝わってくる。アートがメディアの役割を果たしてくれています。リアルタイムで伝わるメディアが世の中にたくさんありますが、2000年経っても伝わりうるメディア、それが古代ギリシア展で目にした芸術作品でした。

2000年先の人類が2016年に生きるわたしたちの生活ぶりを芸術作品から垣間みることがあるとしたら、何に興味があるのでしょう?ワインの瓶やiPhone、テーブル、そういうものはこれから形はどんなふうに変化して行くのでしょう?書籍や論文はまだ実在するのでしょうか?

メディアはアート、アートはメディア。展覧会へいくと、時間軸を過去現在未来と行き来して、発想の転換がちょっぴり出来そうです。

2016年9月25日日曜日

秋の始まりは、音楽のワークショップから

音に包まれているような感覚。天井の高いホールに、舞台のピアノから和音が豊かに響いて行く。耳をすまし、しばしの時間を音楽の空間にゆだねる……とくに高い音域の物静かな和音は、どこまでも澄んでいて、コンサートホールよりもずっと遥か遠くから聞こえてくるかのようでした。

9月21日、東京文化会館で開催された小曽根真さんのワークショップ自分で見つける音楽 Vol.4へうかがってきました。いま小曽根さんが演奏をする上でとても大事にしているのは「Harmoney~ハーモニー」だそうです。JAZZともCLASSICとも真摯に向き合い、より豊かなハーモニーを目指されている小曽根さんのピアノは、音楽や創作に対する世界観がますます広まり始めているような感じがしました。

会場の聴衆が4拍子の手拍子をしながら、舞台のピアノ演奏と共演させてもらうのは、とっても楽しかったです。ウイーンフィルのニューイヤーコンサートでは、ラデッキーマーチが会場の手拍子とともに演奏されますが、今回のワークショップでは、なんと会場の「4拍子」の手拍子に合わせて、小曽根さんのピアノ演奏は「1拍半」のリズム。かなりの超絶なリズム感に、ただただ驚き。「リズム感や拍子の取り方にたいする思い込みをとりはらってみよう」、という試みだったそうです。

音楽の基本から最新の音楽活動についてまでうかがえて学びの多いワークショップでした。そして、美しい演奏にほろりと涙が出そうになったり、面白いお話に大笑いしたり。優しい気持ちになれて、リフレッシュさせてもらえました。

秋分の日も過ぎたこの週末は、街のお店がハロウィンの飾り付けにかわっているところもありますね。音楽の力を借りて気分のリセットが出来たら、また明日は一週間のはじまり。季節に合う音楽をかけながら、素敵な秋が少しずつやってきます。


2016年9月16日金曜日

被災地にまつわる文学

9月のシルバーウイークになりますが、前回の続きで、被災地におもいをはせています。

被災した人々の物語として、次の本は、911後のアメリカ文学で印象深い作品でした。

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い(NHK出版 ジョナサン サフラン フォア)


ニューヨークを舞台に、ある少年のお話です。

著者のフォア氏は、以下の作品がデビュー作。移民のルーツや、アイデンティティにまつわる物語です。2016年に読み返してみても、このようなテーマはますます重要性を増してきています。フォアの時代に対する先見性が読み取れますね。

エブリシング・イズ・イルミネイテッド(ソニーマガジンズ ジョナサン サフラン フォア)


それから、次の二冊では、911後のアメリカ文学や、東日本大震災後の日本文学がたくさん引用、紹介されています。

テロと文学 9-11後のアメリカと世界(集英社新書 上岡伸雄)



上岡氏は英米文学者として911後のアメリカ現地をまわり、作家にインタビューして本書のお仕事をまとめられました。文学のお話ですが、もっとも読んで心に残ったのは、本のはじめのほうの章で取り上げられていた2001年9月12日、つまり911翌日のNYT記事でした。リアリズムをつきつめた緊迫感のある現場の描写から、ただごとではなかった様子が伝わってきます。

非常時のことば 震災の後で (朝日文庫 高橋源一郎)


高橋氏は、震災直後から新聞で連載した記事をハードカバーの書籍にまとめ、次に文庫化されました。「非常時のことば」を読むと、2011年のムードがします。あれから5年たったことに気づかされました。

思いもよらぬ出来事があり、新しい経験をしたとき、「わたしたちはその出来事や経験について、語るべき言葉をもっていない」とかんじているときがあります。それでも語り、こうして作品の数々が発表されているのが、すごいことだとおもいました。

良い連休を。

被災地と言葉のこと。

 おぼろ月夜の昨晩、「被災地と言葉」について考えました。  

 911後の文学も、東北の震災後の文学も、読んでいると類似する雰囲気がどことなくあります。世相を一変させたそれぞれの一日、普遍的な共通項とは何でしょう。

 思いがけない出来事に接し、言葉を失う体験だったこと。

 フィクションであったとしても、被災地を舞台とした漫画や映画、文学作品であれば「正しく描写できているのか」が切実に求められたこと。

 現実に起きた出来事を理解するうえで、新聞やTVでの報道にくわえて、思想家、評論家、専門家が議論を尽くしても物足りず、絵画、文学、音楽といった芸術作品なども合わせて生じたバランス感覚が、どこかしら救いとなったこと。

 被災から一歩踏み出すために、言葉が頼りになることは計り知れない。灯火のように。

 あらゆる被災地の復興を心から願い、月夜にぼんやりと考えました。